其の視線に込められた真実の意味に、気付ける訳も無かっただなんて。


『驟雨よりも長く、』


不意に触れた肩に身を竦めるだとか、例えばそういった何らかのリアクションを取られたことは一度も無い。

ただ酷く思い詰めたような、其れこそ油断すれば切り殺されそうな視線の強さだけしか、
財前という男からは感じたことが無かった。

だから非常にシンプルで至極当然な理念に照らし合わせてみたのなら、俺に向けられる其の眼差しに、
情愛が多分に含まれているなどと、此れっぽっちも気付ける筈が無いということになる。


部活中に広がった曇天からは案の定雨が降りだし、不運にも
教師に呼び出しを食らった俺の胸中を更に暗鬱なものにした。

傘など持ってきていない事実に小さく舌打ちをして、どうにかなる訳でもないと分かっているのに、
頭上に広がる灰色を睨んでみたりする。

…なんやねん、何も今降らんでええやんけ。

苛々をぶつけるように、何も無い地面を爪先で蹴りあげれば、昇降口に散らばった無数の砂粒を、
スニーカーの底が噛んで耳障りな音を立てる。

太陽に照らされ熱を含んだ大気が、冷やされ湿度を高くして、髪に腕にまとわりつくのに舌を打つ。


そんなことをしていたもんだから俺は、背後に迫った人の気配に全く気付けなかった。



「…けんやさん、」


冷水を掛けられたような、というのは正しく、この状況にこそ相応しい。
呼ばれたのは確かに俺の名だというのに、返事をすることが出来ない。
其れを発したのが財前であると認識すると同時に、俺の脳裏に蘇ったのはあの、酷く鋭い眼差しだったからだ。




財前は俺の名を一度呼んだきりで、隣に立ったままじっと、水溜まりの増えてゆく運動場を見つめていた。

返事をしなかった俺に再度呼び掛けるでも無く、かと言ってあの視線を投げ掛けてくる訳でも無く、
ただただひっそりと其の場に立ち尽くしていた。


然して俺は、此の如何ともし難い沈黙に耐えられるだけの神経を、残念ながら持ち合わせていなかった。

しかしいつもは滑らかに回る此の口が、まるで其の機能を忘れてしまったかの様に開かない。

規則的な雨音と不自然な早さの鼓動だけが、此の耳を塞いで。

隣に立つ男に視線をやることも、其の名を呼ぶことも、ましてや他愛無い話を振ることすら出来ずにいる。


「けんやさん。」


「…ッ、」


再び呼ばれた名前に、そっと肩に触れてくる指先に、過剰に反応してしまう。

うっかり捕らえて仕舞った其の視線を外すことが出来ずに、カラカラに乾いた喉が辛うじて上下する。


「けんやさん、調子悪いん…?」


流れる様な動きで俺の額に置かれた財前の手のひらは、ひやりとして心地好い。

…雨のカーテンは先程よりも一層厚くなり、放課後の校舎と外界を遮断する。


同じ姓を持つ従兄弟が好みそうな言い回しが、まるで逆上せた頭の中を駆け巡った。


「…んな訳、あらへんやろ。大体、もしそうやったとしても、…お前には関係あらへんっちゅー話や。」



気遣う様に寄せられた手のひらを、乱雑に振り払った時に感じた苦いものは、断じて罪悪感などではない。

憎い訳でも、ましてや厭う訳でもない、ただ部活の後輩であるだけのこの男に、触れられて溢れ出す感情に
名前など要らない。


耳鳴りがしそうな程に上がる熱は、渇き痛む喉奥は、面映ゆい羞恥の所為であって、それ以上である筈がない。


「……まぁ、けんやさんの言う通りかも知れへんですけど。
せやかて心配くらいさしてくれても、バチは当たらんのとちゃいますかね。」


…けんやさんかて、惚れた相手のことは気になりますやろ。




ぱしゃん、と音を立てたのは、財前が雨中に飛び出したからか。
それとも、目を背け閉ざしていたこの感情の、鍵が壊れてしまったからか。


見開いた目の前で、一瞬にしてずぶ濡れた財前が莞爾と笑った。


其の視線に込められた真実の意味に、気付ける訳も無かっただなんて。


こんな茶番劇、どこまでも俺に相応しい。


それでも素直に白旗なんて、今更出来る訳もないから。

止まない雨の中追い掛けて捕まえて、頭のひとつでも叩いてやろうか。


俺もだなんて甘い言葉もキスも、まだくれてやらない。

止めときゃ良かったって後悔するくらいまで俺に惚れたら、捕まえられてやっても構わない。


…それくらい、浪速のスピードスターを本気にさした罪は重いっちゅー話や。


言うたらへんけど、覚悟決めて挑んで来いや。

なぁ、財前。



END